総社

中央集権も羨む吉備王国 古代の謎が秘められた吉備野を巡る

総社には5~6世紀古墳時代に造られた数多くの古墳が残されている。吉備の古墳は約1万4千基を数える。総社に隣接する岡山には5世紀前半、当時大和の古墳をしのぐ規模の古墳(造山古墳)があり、これは邪馬台国や大和の国とは別に、確かにこの地に中央政権に匹敵する「中つ国」(中国地方のいわれ)、吉備のくにが確かに存在したことを物語っている。

鬼神が残したもの。

垂仁天皇のとき、吉備の国に異国の王子が舞い降りた。王子は自らを百済の王子と名のり、人々は王子を「鬼神」と呼んだ。伝えられる縁起は十数種類あり、「温羅」「鬼」「吉備の冠者」と記され、その風貌は、碧限・金髪・長身。頭脳明晰・戦術に優れ、吉備の民は言頼を寄せていたとも、力が並はずれて強く、性質は荒々しく凶悪であったとも言われ、様々な史観にロマンが広がる。

温羅がこの地に伝えたものに「鉄」と「塩」があった。鬼城山の東中腹には全国でも最古級(6世紀)でかつ大規模な製鉄遺跡(千引カナクロ谷遺跡)が発見されている。万葉集には「真がね吹く吉備の…」と歌われたように、中世にはたたら製鉄の技術が日本でも突出していたことが伺える。中でも鬼ノ城の麓、阿曽郷は古代からたたら製鉄が行われ、鉄文化を持ち込んだ鬼(温羅)の末裔・昭和まで腕の立つ「鍛治師や鋳物師」の暮らす鉄の町だった。

今は鉄の産業は衰退、その面影しか残っていない。

鬼ノ城の西門に立つ。眼下には総社平野や児島半島、瀬戸内海そして四国山地までも一望できる。

目の前に広がる田園は昔、吉備の穴海と呼ばれる海で海水から塩を作り、瀬戸内で一番豊かな魚場でもあった吉備の穴海で取れた魚や、カルシウムが豊富な高梁川の水で育った良質な作物などの特産物を保存加工して、吉備の人は交易を発展させていたようだ。

鎮護国家の礎。

飛鳥・奈良時代には、備中の国府も置かれ、国分寺、国分尼寺も配置され、備中の国の政治・経済・文化の中心地として栄えた。備中国分寺は南北朝時代に焼失し、その後、江戸時代中期に日照山国分寺として再興された。現存する伽藍はすべて再興後に建てられた。

現存する五重塔は江戸時代後期の文政4年(1821)から弘化年中までの20数年をかけて建立されたもので、奈良時代の備中国分寺の塔とは別のところに建っている。吉備野のランドマークでもある。

神々が集う社。

大化年間(645~650)、国中の神社を巡拝する習わしの不便をはぶくため、平安末期に国府の近くに造られるようになったもので、324社の神々を合祀した総社宮(そうやしろぐう)が建てられた。市の名称はこれに由来している。前庭の三島式庭園は、古代様式を今に伝え、長い回廊が美しい影を水面に映している。また、拝殿には多くの絵馬が奉納されており、円山応挙や大原呑舟といった有名作家の絵馬も奉納されている。

雪舟ゆかりの寺。

水墨画で有名な雪舟は、室町時代、応永27年(1420)備中国赤浜(現在の総社市赤浜)に生まれた。幼くして井山宝福寺(総社市井尻野)へ入り、涙でネズミを描いたという逸話を残している。

宝福寺創建の年代は不明であるが天台宗の僧・日輪によって開かれたとされ、元来は天台宗の寺院であった。鎌倉時代の真永元年(1232)に備中国真壁(現在の総社市真壁)出身の禅僧・鈍庵慧總によって禅寺に改められた。室町末期の戦火により、三重塔を除いてすべて消失し、江戸時代の中期にほぼ現在の姿に再興されている。三重塔は南北朝時代の建築で岡山県下では2番目に古い。

清々しい自然に囲まれた環境で座禅・講話、宿泊研修など修行を体験できる。

境内にある金は昭和48年(1973)に宝福寺が僧堂として復帰した際、修行を目的としない一般の人が立ち入れなくなったため、寺の典座(料理僧)が独立し、境内に精進料理のお店を開いたのが始まり。

大国主命と美袋「みなぎ」

総社の北西、高梁市に近いところに「美袋」と書く地名の場所がある。日本の地名の中で、最も難しい読み方の一つにあげられる「美」は、ミナギと読む。名前の由来の諸説は様々あるが、公にはこの辺りは高梁川の水際(ミギワ)であったから、「みぎわ」が転じて「ミナギ」という名になったとされている。

地域にはこんな話も残っている

「昔々、大黒さま(大国主命)が、この吉備の国にお出ましになられたことがあった。それは、吉備の国の大王が、無理難題を出雲の国に言い、困った出雲の大王はその解決に、大国さまにお願いした。快く引き受けた大国さまは、はるばる高梁川を下って吉備の都まで来たそうな。その途中にこの地で宿泊され、お休みなさったところが、今、大黒山と呼ばれている山だそうで、お持ちになっていた大きな袋が、この地を覆っていたので、後になって、大きな美しい袋を置いていたところとから「美」となった。最初は、美しい、「美選ビノウ」から「ミノウ」、それが「ミナギ」に変わった。字もいつしか「選」から「袋」へと変わったそうな。」

このような神代の話の方が、本当にあった話ではないかと思わせる...そんな吉備の国の中心「総社」。大国主命を立ち寄らせたという美は水の良いところとして昔から今も有名である。

高梁川の伏流水、豊かな水の都

昭和43年(1968)に総社の真壁で操業を開始したカルピス岡山工場は、現在でも西日本全体の生産・出荷を担う。この地に工場が建設された理由には次の条件がある。①カルピスの原料である新鮮な牛乳が調達できること(県北の牧場)②カルピス製造に必要な良質な水が豊富にあること(高梁川)③当時、鉄道貨物が主であったことから線路に近く引き込み線が引けること(伯備線)の3つである。

飲料製造には大量の水が必要であるが、カルピス(株)岡山工場では、高梁川から引き込んでいる伏流水と工場敷地内にある井戸の水を使用しており、これらの水を浄化して商品にも使用している。工場排水は、法定以上の基準で綺麗な水に浄化して、高梁川に放流しており、その水質を監視するために、場内にビオトープをつくり、クロメダカなど高染川に生息する絶滅危惧種の生物を飼育している。更に水使用量や排水量の低減にも取り組み、積極的に自然や地域との共生を図っている。

酒どころ岡山と備中杜氏と備中神楽

酒どころと言えば、兵庫の灘、広島、新潟が名が通っているが、歴史を通して酒蔵数や酒造量を見ると岡山は絶えず上位に入る酒どころだ。

現在、備中地域には32の酒蔵がある。件数では岡山県の半分を越え、総生産量では県全体の約8割を生産している。岡山県には明治15年頃には80以上の蔵があった。最も生産量が多かった昭和48年(1973)に49の蔵があり、生産量は27万石(石ごく=千合)を越えていた。岡山は隠れた「酒どころ」なのである。印象が薄いのは、灘への仕送り酒として発展した歴史があり、灘の大手酒造のブレンドに備中の酒が多く機能していた。

日本酒には米と水の質が重要だが、日本一の新田開発数を誇る岡山平野は米どころでもあり、「雄町」をはじめ「山田錦」「朝日」「あけぼの」といった酒造好適米や準好適米を栽培している。備中の水は、やや硬度が高い軟水で山陽地方市の流水量を誇る高梁川流域の水である。醸造に適した米や水がたくさん手に入るのが、備中に酒蔵がととも多くある理由である。備中杜氏は昭和53年(1978)には46人いたが、現在は19人となっている。

県酒造組合備中エリアの会長は、制度的、流通的、技術的にも日本酒は歴史の中で、今が最高の時代であると語る。海外での日本酒の評価が高まる中、日本人の我々は今一度、日本酒のことを、その文化も含めて深く知るべき時なのであろう。

日本の祭りとともにあった日本酒。備中、備後、出雲、石見など中国山地全体に残る神楽。その中に八岐大蛇(やまたのおろち)退治という神楽があるが、備中神楽の中にだけ、酒造りの場面が登場する。松尾(まつのお)明神と室尾(むろお)明神、奇名玉(くしなたま)明神の3人が唄を歌って酒造りの場面を行う。出雲の神楽にも石見神楽にも無い酒造りの場面を備中では面白おかしく演じるのである。神楽の中に酒造りが残っているのは日本で唯一、備中地方だけなのである。